『カケラ』(日/2010)
監督:安藤モモ子
原作:桜沢エリカ
音楽:ジェームス・イハ
出演:満島ひかり、中村映里子



女はじめます、の覚悟まで日記。

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「自分がだれかなんて、自分で決めろ」。
の90年代日本映画"風"砂糖がけ。

<STORY>
大学生のハル(満島ひかり)には恋人がいて、都合の良い女というポジションに疑問をもちながらも甘えている。ある日、突然の休講にカフェで時間を潰していたハルは、リコ(中村映里子)に声をかけられる。彼女は、事故や病気でからだの一部を失った人たちのからだの一部をつくるメディカル・アーティストだった。実家のクリーニング屋は汚れたものを綺麗にするところで、自分は人々の欠けたものを補う仕事、性分が似ていると笑う。リコはハルに恋をするけれど、ハルはリコへの気持ちが恋愛なのか友情なのか、区別がつかないでいた。やがて、恋人との関係を清算できないハルと大喧嘩をするが――。

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原作は読んでいないのだけれど、セリフ棒読みの中村映里子が5周くらい回って味わい深くなるくらい、綿密に練られたプロットで、画面に映るもの、音、すべてが"伝えたいこと"を隠喩している。2010年当時にみたときは、「ヨーロッパ映画の教科書どおりに撮りました!」みたいなそのあざとさがなんだか鼻につき、正直あまり好きではなかった。

満島ひかりの生命力とか、生き物としての動き、しゃべり方、ちょっと見ちゃいけないやばいものを見ている感じが好き。
『愛のむきだし』が彼女を見た最初の映画だったけれど、キレキレ感はメジャーになってきた今も相変わらずで、先クールのドラマ『ごめんね青春』でも血管切れそうな身体的な芝居をしていた。綺麗に映ろうとしない女優。最高。なのに、この映画の印象はすっかり消え去っていたくらい、『カケラ』では彼女の持ち味である生命力とか、熱、マグマみたいなものがふにゃ~と封印されているのだ。安藤モモ子の演出によって。




ところが、先日、安藤桃子(同監督)の最新作『0.5ミリ』を観たとき、やっぱりすこしあざとさは感じたけれど、伝えたいメッセージを映画の筋肉すべてを使って伝えてくる安藤桃子の聡明さと誠実さを感じた。そしてそれから『カケラ』を観直したら、前より素直に、彼女からのメッセージをたくさん受け取れた自分に驚きもした。

さらに、この映画で満島ひかりは役のハルちゃんとして、女優満島ひかりから分断されているから、それはすごいことだとも今ならわかる。

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女の子って、いつから女になるんだろう。

それは、大学生になったからとか、初めて彼氏ができたからとか、初めてお酒を飲んだからとか、そういうソトの話じゃなくて、自分で決めるんだと思う。
それを拒んでいて、心地いいところで浮遊しているのがハルで、いろんな理由で"わたしはこういう女"という城を固め上げなければならなかったのがリコ。
ふたりは凸と凹で互いに埋めあう。



ここからは超解釈だけれど、きっとリコとハルはひとりの女の子のなかにいる。ほんとはみんな、ハルのままでいたいけれど、皮あるいは革をもたないものはひたすら消費されて消耗されてしまうから、わたしたちは絶対にリコの部分をもたなければいけないのだ。

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つまり、女になると決めたわたしたちの苦悩は、どのくらいの塩梅でリコとハルのバランスをとるか、ということ。それは、一緒にいる相手によっても変わってくるのかもしれない。「女の子のやわらかいところが好き」とリコは言うけど、映画の終盤、やわらかくて甘いマシュマロを一度に食べ過ぎてハルはえずいて吐き出す。そして通りかかった男子に「いくら好きでも、一度に食べると気持ち悪くなる。好きなものはすこしずつ食べたほうが幸せ」というようなことを言われる。



いつからか"幸せ"にいろんな邪念が入りはじめて、それをピュアに保とうとすればするほど表皮は厚くなる。"自然体"という人工的な賢さを身につけなければ。
もうこのくらいで幸せ、を見つけて、それ以上を求めない訓練を積みながら、今日もわたしたちはハルとリコを、トイレの芳香剤みたいに、多めに出したり、すっぽり隠れたりと調節している。いずれにしても、いいにおいは、いつかは無くなる。


最後に、なかもそとも、どっちもわたし。
どっちもなければ生きられない。そういう映画。