fragments わたしをつくるカケラたち

ライター、編集者として活動中。 映画を中心にカルチャー、アート、美容、ファッション――”わたし”をかたちづくる愛おしい”カケラ”たちについて日々綴ります。 こころもからだも、豊かに美しくあるために。

カテゴリ: 映画

今、チョン・ウソン主演の韓国映画『The Divine Move 神の一手』のお仕事をさせてもらっているのですが、、、、






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かこいいね!!

囲碁映画と聞いて「激しぶーーーーー」と思ってました。
ごめんなさい。
めっちゃアクション!!


むかし先輩(男性)が某有名ブランドのイベントで、尋常じゃなく、この世のものとは思えないスタイルのいい生き物がいる、と思ったらチョン・ウソンさんだったと言っていました。
芸能人に会うといつも思いますが、もう骨格が違いますよね。

で、劇中、こーんな素敵なスーツを何バリーエーションも着こなし、惜しげもなく汚してファイトしているのですが、やっぱこれ、反則的にかっこいいわけです。


めちゃくちゃ鍛えられた体に、サイズの合った仕立てのいいスーツ。
キーワードは、胸板、ですね。




プロの囲碁棋士が、兄を殺された復讐をするために、
賭博囲碁の極悪一味と命懸けで戦う犯罪アクションなのですが、
「囲碁という究極の頭脳戦✖️迫力の怒涛のアクション」 
という、静と動がうまくコントラストで効いていて、
そのどちらの世界観でもチョン・ウソン魅力炸裂!でした。




こんなこというとファンの方に怒られちゃうかもしれないけれど、
肉は腐りかけが美味しい、みたいな言葉を思い出していました。
円熟、ってことばがピンとくるような 大人の色香が漂っていて、
これ、昔からのファンには感慨深い作品なんじゃないかなーと、
ひとり謎な視点で観ていました(笑)。 


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これ、すごくないですか?! 
鍛えてるなー。
しかし鍛えてるなー。 
鍛えすぎててすこし笑いました。
ドラゴンボールじゃないですよ? 
実写の映画です。念のため。
 
チェ・ジニョク(右)という注目株の俳優さんが出ていて、
彼はチョン・ウソンの敵役なのですが、
ふたりで-30℃くらいの冷凍室のなかで上半身裸で碁を打っております!
 
韓国映画では、わりとこういったサービスショット、お決まりですよね。



『神の一手』は犯罪アクションなのですが、脇を固める俳優陣(名優アン・ソンギはじめ)の芝居が全員うますぎて、唸った!
これはレベル高いーーー。
韓国映画やドラマ好きの方なら、馴染みのあるお顔がいっぱいです!
けど、囲碁賭博の話だから、みんなちょーーーーーーーーーーーーーーーーこわい。。
イ・ボムスとかひょうきんなイメージしかなかったのに、あまりに怖くてトラウマです。
つまり最高な芝居してます。

 

もちろん、チョン・ウソンのアクションは長い手脚を活かしてキレキレだし、なにより色気、ありますね〜。



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いろいろ調べてたら、彼の出世作の映画『ビート』が、韓国国民が選ぶ青春映画トップ10の1位だとか。アクション映画らしく、観てみたいなー。
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わかい
(ちょっとEXOのレイくんに似てる?)


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わかいね! 





韓国映画も好きです。ドラマはあまり観ないけれど。
パク・チャヌク、キム・ギドク、ポン・ジュノ監督が好き。 
絶対の愛


 

『カケラ』(日/2010)
監督:安藤モモ子
原作:桜沢エリカ
音楽:ジェームス・イハ
出演:満島ひかり、中村映里子



女はじめます、の覚悟まで日記。

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「自分がだれかなんて、自分で決めろ」。
の90年代日本映画"風"砂糖がけ。

<STORY>
大学生のハル(満島ひかり)には恋人がいて、都合の良い女というポジションに疑問をもちながらも甘えている。ある日、突然の休講にカフェで時間を潰していたハルは、リコ(中村映里子)に声をかけられる。彼女は、事故や病気でからだの一部を失った人たちのからだの一部をつくるメディカル・アーティストだった。実家のクリーニング屋は汚れたものを綺麗にするところで、自分は人々の欠けたものを補う仕事、性分が似ていると笑う。リコはハルに恋をするけれど、ハルはリコへの気持ちが恋愛なのか友情なのか、区別がつかないでいた。やがて、恋人との関係を清算できないハルと大喧嘩をするが――。

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原作は読んでいないのだけれど、セリフ棒読みの中村映里子が5周くらい回って味わい深くなるくらい、綿密に練られたプロットで、画面に映るもの、音、すべてが"伝えたいこと"を隠喩している。2010年当時にみたときは、「ヨーロッパ映画の教科書どおりに撮りました!」みたいなそのあざとさがなんだか鼻につき、正直あまり好きではなかった。

満島ひかりの生命力とか、生き物としての動き、しゃべり方、ちょっと見ちゃいけないやばいものを見ている感じが好き。
『愛のむきだし』が彼女を見た最初の映画だったけれど、キレキレ感はメジャーになってきた今も相変わらずで、先クールのドラマ『ごめんね青春』でも血管切れそうな身体的な芝居をしていた。綺麗に映ろうとしない女優。最高。なのに、この映画の印象はすっかり消え去っていたくらい、『カケラ』では彼女の持ち味である生命力とか、熱、マグマみたいなものがふにゃ~と封印されているのだ。安藤モモ子の演出によって。




ところが、先日、安藤桃子(同監督)の最新作『0.5ミリ』を観たとき、やっぱりすこしあざとさは感じたけれど、伝えたいメッセージを映画の筋肉すべてを使って伝えてくる安藤桃子の聡明さと誠実さを感じた。そしてそれから『カケラ』を観直したら、前より素直に、彼女からのメッセージをたくさん受け取れた自分に驚きもした。

さらに、この映画で満島ひかりは役のハルちゃんとして、女優満島ひかりから分断されているから、それはすごいことだとも今ならわかる。

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女の子って、いつから女になるんだろう。

それは、大学生になったからとか、初めて彼氏ができたからとか、初めてお酒を飲んだからとか、そういうソトの話じゃなくて、自分で決めるんだと思う。
それを拒んでいて、心地いいところで浮遊しているのがハルで、いろんな理由で"わたしはこういう女"という城を固め上げなければならなかったのがリコ。
ふたりは凸と凹で互いに埋めあう。



ここからは超解釈だけれど、きっとリコとハルはひとりの女の子のなかにいる。ほんとはみんな、ハルのままでいたいけれど、皮あるいは革をもたないものはひたすら消費されて消耗されてしまうから、わたしたちは絶対にリコの部分をもたなければいけないのだ。

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つまり、女になると決めたわたしたちの苦悩は、どのくらいの塩梅でリコとハルのバランスをとるか、ということ。それは、一緒にいる相手によっても変わってくるのかもしれない。「女の子のやわらかいところが好き」とリコは言うけど、映画の終盤、やわらかくて甘いマシュマロを一度に食べ過ぎてハルはえずいて吐き出す。そして通りかかった男子に「いくら好きでも、一度に食べると気持ち悪くなる。好きなものはすこしずつ食べたほうが幸せ」というようなことを言われる。



いつからか"幸せ"にいろんな邪念が入りはじめて、それをピュアに保とうとすればするほど表皮は厚くなる。"自然体"という人工的な賢さを身につけなければ。
もうこのくらいで幸せ、を見つけて、それ以上を求めない訓練を積みながら、今日もわたしたちはハルとリコを、トイレの芳香剤みたいに、多めに出したり、すっぽり隠れたりと調節している。いずれにしても、いいにおいは、いつかは無くなる。


最後に、なかもそとも、どっちもわたし。
どっちもなければ生きられない。そういう映画。


『スプリング・フィーバー』(香・仏・中/2009)

監督:ロウ・イエ

脚本:メイ・フォン

出演:チン・ハオ、チェン・スーチェン、タン・ジュオ





3日ももたない花のように、忘れられない美しさ。



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STORY

夫の浮気を疑い、探偵ルオ・ハイタオに調査をさせるリン・シュエだったが、夫の浮気相手は男だった。“同級生”と浮気相手の男を夫に紹介された妻はやがて絶えられず、浮気相手ジャン・チョンの職場で彼をののしる。これをきっかけにジャン・チョンの心を離れるのだが、調査を終えたルオ・ハイタオがジャン・チョンに興味を抱き、ふたりは次第に惹かれあう。ルオにはリー・ジンという女がいたが、彼女もまた職場の工場長とも関係をもあっていた。愛にさまよう男女3人、風にたゆたうように不思議な旅が始まる――。

 


 

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前作『天安門、恋人たち』が中国で上映禁止、当局から5年間の国内での映画製作禁止を言い渡されたロウ・イエが、フランスと香港の出資を受けて制作。家庭用デジタルカメラでゲリラ的に撮影されたその内容が、同性愛を含んだものだったから、また驚かされる。

 


ゲイの男が主人公というと、それだけで色眼鏡で見られがちだけれど、映画をリードする中国の小説家・詩人の郁達夫(ユイ・ダーフ)の詩のように上品で、個人的で、瑞々しい。

 


主人公ジャン・チョンは自由で、恋人にも仕事にも、家にも執着しないし、ふわふわ風に吹かれるように生きている。彼は、自分の心に正直だけれど、同時に、本能的に分をわきまえている。それはもう哀しいくらいに敏感に、だ。それを諦めと呼ぶのか、自衛と呼ぶのか、あっさりとしているだけなのかはわからないけれど、彼は掛け値なしで愛に身をゆだねている。瞬間瞬間の愛に。だから、剥き出しの彼のこころは傷だらけなのだろう。




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陳腐な歌謡曲の歌詞のようで書くのもためらうけれど、わたしたち人間は花なのだと思う。それを咲かせる責任があるし、咲く場所を考えて、咲くべきタイミングあるのだと感じる。

主人公のジャン・チョンは、自分という花をよく知っている。その魅力も、その命の短さも、咲くべき場所も、咲けない場所も。だから、その枠を出るものを求めない。

 


 


郁達夫の「春風沈酔の夜」

春の、生ぬるくて強い風。すきな香り。

何かが終わって、始まる、戻れない季節。

 


 

 


“個人”と“愛”を見つめるロウ・イエは、何と戦っているんだろう。

彼の作品を、現代中国とか、政治的な観点から語るのは好きじゃない。

(その観点から語られがちで、実際その観点からでも意義のある作品なのだけど)

わたしは彼の映画のキャラクターたちが好きなのだ。彼らは、わたしたちだからだ。


あー、でももう、ロウ・イエおなかいっぱい。

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『0.5ミリ』(日/2014)
監督・脚本・原作:安藤桃子
出演:安藤サクラ、津川雅彦、柄本明、坂田利夫



0.5ミリまでしか近づけない。0.5ミリまでは近づける。
だから、自分の生におとしまえをつけられる。



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<STORY>
介護ヘルパーのサワはある日、寝たきり老人と一晩添い寝してあげてほしい、と老人の娘に懇願され引き受ける。老人の亡き妻の赤いワンピースを着るように指示されるが、その晩事件が起こり、サワは職を失い家も失う。着の身着のまま放浪を始めたサワは、見知らぬ街で老人たちの弱みにつけこみ、家に転がり込むおしかけヘルパーを始める。




 
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死ぬことを考えることは生きること。
いま、わたしにはこれがわかる気がする。


生きることは赤い血を流すこと。
赤いということは、生きているということ。


映画のレビューを書きたいのだけれど、自分のことしか考えられない。



おじいちゃん、ではないけれど、小さいころから習っていた剣道の先生が大好きだった。
清潔でシワの入った手の指の爪に深く綺麗に縦に刻まれた線、いつも潤っている深くて強い目、カタカナで書く文章、わたしのことを「君」をつけて呼ぶこと、いつも背筋が伸びているところ、小さくて形のいい頭に綺麗に整えられた髪、誰かとわたしを比べたりしないこと、クリスマスにはドイツのチョコレートをくれたこと、女の子だからってこっそり特別にシールをくれたこと、全部大好きだったし、全部鮮明に思い出せる。

戦争の話もしてくれた。
幼かったわたしは、先生の大きな目をみながら、この”目”がきっと、いろんなことを見てきたんだなと生まれるずっと前の話を近くに感じていた。
先生は97歳で亡くなってしまったけれど、最後まで道場で稽古をみていたし、トンカツも食べていた。亡くなったときも、奥様と一緒のとき、静かにひとりで亡くなった。 




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安藤桃子の『0.5ミリ』は約3時間の長尺で、3時間の映画を観る為の忍耐力をしっかりと要求する。
だから、途中いろんなことを考えたりする(お腹も空く)。
だから、津川雅彦の何やら意味ありげな大切そうな言葉もつい聞き逃す。
そして、いつものごとくただならぬ雰囲気の柄本明が出てきたら、津川雅彦が恋しくなった。
そして、津川雅彦の前は誰だったっけ?と思い、坂田利夫だ、しげおしげお(役名)、と回想して坂田利夫も恋しくなる。
ついでにその前は、サワちゃんにコートをくれた老人だな、あのおじいちゃんもよかったなー…と思い出を遡る。 
そして、ようやく、サワちゃんがにぎったおにぎりをスーパーのビニール袋に入れて職場へ向かうフェリーで、足が床に届かないイスにちょこんと座る柄本明、この素晴らしすぎる役者の芝居に重い腰を上げて対峙する。


きちんと時間を過ごすことで、きちんと記憶を辿るという体験を観客にさせる。
必然性のある長尺の映画だ。


この映画は、介護問題、戦争、ロードムービーとか、そんな画一的なジャンルで語るべきではなくて、死、人生、人間、関係、罪、生、哀愁、絶望、希望、そんなことを、お尻が痛くなったわたしにしっかりとお土産としてもらせてくれる、そんな映画だ。


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とても落ち込んだ21歳のとき、父親がくれた言葉。
「memento mori 死を思え」
そのときは、死を考えることで、どうして前向きになるのかわからなかった。
だけど、いまならわかる気がする。

とてもとても疲れ果てた26歳のとき、父親はなにも言わず、なにも聞かず、アイスクリームをたくさん買ってきてくれた。 




残りの人生、あとどのくらい人の0.5ミリに近づけるんだろう。 
近づく勇気と、その行為の愛おしさを、サワちゃんというヒーローが教えてくれる、そういう映画。
とても私的な、0.5ミリな映画。 

『天安門、恋人たち』(中、仏/2006)
監督:ロウ・イエ
脚本:ロウ・イエ、メイ・フェン、イン・リー 
出演:ハオ・レイ、グオ・シャオドン



青春の挫折と苦い余韻。
うまく生きられないという美学。

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<STORY>
1987年、地方から北京の大学に進学したユー・ホン。文学的で美しく、タバコをふかす姿が魅力的で頭のいい少女。彼女は、チョウ・ウェイという学生と恋に落ちる。激しくて、文学の世界に浮遊しているような彼女とチョウ・ウェイは愛し合いながらも激しくぶつかる。時代は民主化を求める学生運動の時代でもあった。ユー・ホンら学生は、1989年の天安門事件を境に離れ離れになり、それぞれに青春を挫折し、そしてその深い傷を抱えたままに静かに大人になろうとしていた。
ユー・ホンとチョウ・ウェイはお互いのことを忘れることはなかったが、目の前にある日常という人生に折り合いをつけようともがいていた。恋人たちの運命と、中国社会の激動の時代が重なり綴られる。


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わたしはユー・ホンに恋をした。
彼女は闘っていて、悶えていて、血を流しつづけている。
彼女は、わたしには、英雄だ。


中国では当局の脚本の検閲等を通して許可が下りた映画しか製作できないし、制作後にも提出が義務づけられている。そしてロウ・イエ監督は、この『天安門、恋人たち』を勝手に撮ってしまったものだから、4年間の自国での映画製作を禁止される。
天安門事件は現在でも最大のタブーだから。


ともすればそのような部分がフューチャーされる本作だけれど、もちろん、わたしたちがこれまで知ることができなかった現代中国の若者たちのリアル(そしてそれは驚くほどにわたしたちと同じ)に触れられるということでとても貴重だけれど、この映画の最大の魅力、本質にはそこにはない。
また、そこ以外の部分でわたしはこの映画に恋してしまった。
正確には、主人公ユー・ホンに。





深く考えすぎないこと。
ポジティブなことばを発すること。
物事や人のいい面をみること。
ストレスを溜めないこと。
場の空気を読むこと…


短絡的、楽観的であることが、幸せな人生への近道であるかのような情報に囲まれている。
あるいはそれは真理なのかもしれない。
だから、それに素直に順応できな自分はいつも苦しく、我ながら不憫だ。


そんな自分の片鱗が姿を現しはじめたころ、倫理の先生が授業で笑いながら残酷に言った。
悩んでしまうひとは、自分はそういう人間だから仕方がないと諦めるしかない。そうでないひとは、そのまま、楽しい人生を!
そんなような内容だった。




で、ロウ・イエ。
ロウ・イエの映画に登場する人物たちは面倒くさい。
面倒くさいのだけれども、彼ら、彼女たちはたまらなく魅了的。
周りの人間たちが巻き込まれて引きずり込まれていくのも納得してしまうくらいに。
監督は直接的な方法で、彼らをジャッジすることもない。


先日、最新作『二重生活』のプロモーションで来日中の監督と話す機会を頂いたとき「ぼくもあなたと同意見で、楽観的な態度でいることで幸福を得るというのは合っていると思う」と言っていた。
だけど「ユー・ホンはいろいろと苦悩しているけれど、彼女はそれを楽しんでもいるんだよ」とも加えた。


何かについて悩んだり考えたりしすぎてしまう種類の人間であるわたしも、実はそれはそれでその味を享受していたりするのだ。そしてそれは、何を隠そうわたしという人間のアイデンティティにまでなってしまっている。つまりわたしはわたしの生を生きる、という意味で、非常に幸福なメリットをもらっているのだ。代償は、生きづらいってこと(笑)




「青春はいつまでも延滞していると、莫大な延長料を払わされる」
宮藤官九郎のドラマ「ごめんね青春」の最終回(か、一個前の回)でそんなことを言っていた。


彼らの意思とは関係なく、天安門事件という大きな、大きな闇が青春を分断し、言いようもない挫折が個人の胸を蝕みつづける。彼らは、とっくに時代遅れな青春を早く返却したいのに、返す店が潰れ
てしまったんだ。だから、魂を削って延長料を払いつづけてる。これ以上払えず死んだ者もいれば、ひたすら放浪してごまかそうとする者もいる。




ユー・ホンもチョウ・ウェイも、もういちどふたりが一緒になれば、すべてが解決するような気がして、その希望を胸に味気ない日常を生きてきた。だけど、それが夢だったということが残酷にも明らかになったとき、声も発さず涙もみせず、それぞれの道をこれまでどおり歩んでいったふたりの静かな眼差しには、それでも生きなくてはいけない、この生を全うしなければいけないという、諦めの覚悟が宿っていて、それはすごく美しいと思った。


毎日笑っていることが、幸せだなんて言わないでほしい。


 

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